風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

五回目の爆発『利己主義者の問題』2

利己主義者は古代の賢者達が認めていた原則を無視しているように思われます。それは真理と真理の見せ掛けはまったく違うものであるということです。消費者はできるだけ安く買い、生産者はできるだけ高く売るように行動するという経済学の不変の真理はまさに利益の見せ掛けについての知恵です。なぜならそこでは動機は「自由な活動」という一語で基本的には説明されてしまうからです。ところで安いとか高いとかいう判断はどう行なわれているのでしょうか。明らかに直前の記憶との比較から来ています。そうでなくてはあるのは全体的な数字だけになってしまい、投資以外のどんな消費行動も行なえなくなってしまうでしょう。生産された商品がどう流通するかはまったくわからないというクロソウスキーが述べている原則はケインズの理論や大企業が広告や情報操作によって市場をある程度恣意的に操作できる状況から見るとおかしな風に見えます。しかしこのことは次のように考えてみるとよく分かります。私がある商品を生産した場合、それがどう評価されるのかは私には数字以外にどのような判断基準もありません。仮に最初からサクラがいてそれを良いと判断してくれる人たちがいるのなら、それは人から良いと評価されたものはすべからく自分にとっても良いものだという前提を受け入れなくてはなりません。つまり最初からある価値判断の一致があるのでなくてはならないのです。そこで人はただちに計算をするようになるわけです。計算によって物の価値を評価するためには、量的な価値が条件反射的に良いと評価されることが必要です。ここから画一化が推進されます。おそらく厳密な意味では生活必需品と呼ばれるものにはこういうことは当てはまらないでしょう。しかし生活必需品を買うことができるのは貨幣だけであるということから、やはり画一化が推進されるのです。私はこのことを別の意味でですが「人はパンによってのみ生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」という解釈を当てたいと思います。人は「安い」という言葉で生きますし、「利益」という言葉でも生きるのです。功利主義者の発想は、決して凡庸な考えではありませんが凡庸な人間のための考えではあります。それは自分と他の人間がさほど違わない人たちの全体的な利益計算だからです。ホッブズように人間の本性は低劣な欲望であったり、ルソーのように憐れみだったり、ベンサムやミルのように利益であったりするような考えからどうして偉大な人間が生まれるでしょう。自身の低劣さを人間本性と取り違える正当化からは、自身の低劣さをどうにかしようという考えではなく社会をどうにかしようとする考えか英雄崇拝しかでてきません。いつも彼らは「英雄も結局人間なのだ」と言って自身を慰めています。結局のところ、集団幻覚を見せたいのならスクリーンを、集団幻聴を聞かせたいのならイヤホンを、神の啓示を受け取りたいのなら電源(聖霊)を入れる動作を実行することを全て実現する道具を持っている人間は幸いなるかな。嘘については事実を出せば反駁できますが、愚劣や不毛、狂気や幻想に対してはどうすることもできません。私はほとんど陳腐に見えるかもしれませんが、こういうものに対して次のように反駁したいと思います。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くしてあなたの神である資本を愛せよ。」「あなたの貨幣をあなた自身のように愛せよ。」経済全体と、利己主義者とが、この二つの戒めにかかっているのです。