風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

三回目の爆発『貧困と労働者』3

「さて、生産過程のなかで占める位置に従ってではなく、自らの意志や志操、あるいは素質によって定義される類型としての「精神的人間」という構想がどこに行きつくのかが、ここでは手に取るように明らかです。デーブリーンが述べるところでは、精神的人間はみずからの場所をプロレタリアート隣に見出すべきだ、ということになります。これは、しかし、どのような場所なのでしょうか?それはパトロンの場所であり、イデオロギーに関する保護者の場所です。ありえない場所なのです。こうしてわれわれは、冒頭に提示したテーゼ、すなわち、〈階級闘争における知識人の場所は、ただ、彼が生産過程のなかで占める位置に基づいてのみ確認できる、あるいはむしろ、選び取ることができる〉というテーゼへと戻ってくることになります。」(ヴァルター・ベンヤミンベンヤミンコレクション5[生産者としての〈作者〉]』)
「文学運動としての新即物主義に目を向けると、わたしはもう一歩進んでこう言わなくてはなりません。つまり新即物主義惨めな状態に対する闘いを消費の対象にしてしまったと。実際、新即物主義の政治的な意味は、多くの場合、市民(ブルジョワ)階級に現れた限りでの革命の反映を、大都市のカバレット興行に難なく適合するような、気晴らしや娯楽の対象へと転化することで尽きてしまいました。政治的な闘争を、決断への強制から瞑想的な愉楽の対象に、生産手段から消費財に変えることが、この文学を特徴付けるものなのです。」(同上)
「理想の伝播者であり「代表者」にすぎないというのは、理想主義者たちの賢明さである。このことで彼らは、無欲や英雄主義を信ずる者どもの眼には、「光りかがやくもの」と映ずる。ところが、真の英雄主義は、犠牲、献身、無欲の旗のもとでは戦わないこと、むしろ全然戦わないことのうちにある・・・「はかくのごときものであり、はかくのごときことを欲する。―――君たちなどくたばれ!」―――」(ニーチェ『権力への意志 394』)
「(…)―――信ずるためには何をなすべきか?」とは―――不条理な問いである。キリスト教において欠けているのは、キリストがなすべく命じておいたすべてのことを何ひとつしていないということである。これは憐れむべき生である。しかしこれも軽蔑の眼で解釈されるならのことである。」(同上『193』)
真の生に入るとは―――普遍的生を生きることによっておのれの個人的生を死から救うことである―――」(同上『194』)
「金銭は制度的な意味においては、貴重な富の等価物であり、労力と苦労の記号であるが、ここでは倒錯的ファンタスムのためにそれらの富を流用することを意味するのでなくてはならない。ファンタスムが通貨のかたちで決められた一定の出費を要求するとしたら、通貨のほうは、その通貨の購買力によってあらわされるのと同じだけの富という、具体化されたかたちで、富と同じだけの労力、同じだけの苦労が奪い取られる。かくして富の等価物である金銭は、富の価値を守りつつも、その富を破壊することを意味することになる。」(ピエール・クロソウスキー『生きた貨幣』)
「(…)それは、完全なる怪物性=残虐性において、規範を侵犯することが、非存在者、つまり可能なるものを漸新的に征服していくこととして現れるのと同じなのである。」(同上)