風鈴神社

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けめくじ氏の『書き込みと引用』について3

ニーチェの思想の研究において、黙過されてきたと言わないまでも、これまで充分に明らかにされなかった二つの本質的な点に留意したい。第一点は、彼の思想が、その展開につれて、単に思弁的なものだけの世界を棄て、陰謀の下準備の様相を、擬装するとは言わないまでも、身にまとうようになるということである。そのためにニーチェの思想は今日では暗黙の断罪の対象になっている。その論告求刑をおこなったのはマルクス主義批評だが、マルクス主義批評は、ブルジョワ的起源を持つあらゆる個人的思想は必然的に階級の「共謀」であると主張することで、少なくとも陰謀の意志だけは明らかにしたのである。確かにニーチェ的な陰謀というものがある。しかしそれは階級の陰謀ではなく、その階級の諸手段を用いながら、彼自身の階級のみならず、人類全体の既成の形態に反逆するような孤立した個人(たとえばサド)の陰謀なのだ。第二点は、第一点にも密接に関係しているのだが、ニーチェの思想がすでに生きられた事実を考え抜き、考え抜くことによってそのすべてを徹底的な先取り的思慮に逆転させるのを目にするとき、しかも、「思考する者の責任」を軽減しもする解釈の錯乱に身をゆだねながらそうするのを目にするとき、人はその思想にいわば「情状酌量」を与えてしまうということである。これはマルクス主義による論告求刑よりも悪質である。というのもそこには軽減すべきいかなる罪もないからだ。ひとが弱めようとするのはその同じ思想がまるで自分の軸をまわるかのようににして錯乱のまわりをまわっているという事実である。ところがニーチェは初期の著作からすでに自分のなかにあるそうした傾向を恐れており、〈カオス〉が―――より正確には「空隙」が―――つまり彼が幼年時代から自伝によって埋めつくし乗り越えようとしていた間隙が―――彼におよぼす抗しがたい魅力と戦うために全力を傾けていたのである。」(ピエール・クロソウスキーニーチェと悪循環』)
ニーチェにおいては明晰さと錯乱と陰謀が分かちがたい全体を形づくっている。分かちがたさ、それは今後、何が重要であり何が重要でないかについてのすべての判断基準となるだろう。ニーチェの思考が錯乱を内包するからといって、それが「病理学的」であるとはかぎらない。むしろその思考は優れて明晰である故にこそ、錯乱的な解釈の様相をまとうのだ―――それが近代世界における実験的な行動すべての必然的な運命である。その後の行動が失敗か成功かを判断するのは近代である。しかし世界それ自体がニーチェの行動に関係させられているのだから、近代世界がみずからの失敗の脅威を増大させるにつれて―――それだけますますニーチェの思考は偉大さを増すのである。近代のカタストロフィーはいつも―――その実現に至るまでの期間の長さはまちまちだが―――「贋の予言者」の「福音」と分かちがたく結びついている。」(同上)