風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

けめくじ氏の『書き込みと引用』について2

「芸術家とは、その内的な感性の鋭さ故に政治に背を向けるのではない。内的な繊細さが要求されてもいないときに外的な鈍感さを装う、きわめて政治的な存在なのである。それはほかでもない、制度的に深く政治に加担する存在だということだ。」(蓮見重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
「誰かに何らかのかたちで役に立つ書物を書くこと、その誰かは、もはや権力者でしかなく、何らかのかたちは政治的たらざるを得ず、役立つのは祖国にでしかないという事実を、彼は歴史的に証明してしまったのだ。何も書くことができなくなったとき、、さらに書き続けるために残された唯一の途は、何も書きえないということそのことを書くことでしかないだろう。そうでなければ黙る以外にない。にもかかわらず人に黙ることを選ばせず書くことへと向かわせるとき、文学はあからさまに政治的になる。」(同上)
「ここで問題なのは、ほとんど臆病なまでに嘘をつくことを避けているその言論的な律儀さである。というのも、人がデマゴギーと呼ぶところのものは、決してありもしない嘘出鱈目ではなく、物語の忠実さから来る本当らしさへの執着にほかならないからである。人は事実を歪曲することで他人を扇動しはしない。ほとんど本当に近い嘘を配置することで、人は多くの読者を獲得する。というのも、人が信じるものは語られた事実ではなく、本当らしい語り方にほかならないからである。デマゴギーとは、物語への恐れを共有しあう話者と聞き手の間に成立する臆病で防御的なコミュニケーションなのだ。ブルジョワジーと呼ばれる階級がその秩序の維持のために最も必要としているのは、この種のコミュニケーションが普段に成立していることである。その意味で、晩年のマクシムは、おそらく無意識ながら、物語が内容ではなく形式であることを心得ていたといえると思う。物語にあってもっとも避けられなければならないのは、その形式的な誤りである。」(同上)
「だが、人類の大儀を口にしながら成熟を証明してみせるという作業は、人類にとって決して普遍的なものではない。誰に頼まれたのでもないのに進んで筆を執り、自分がもはや過去の自分ではないと証明して見せるのは、自然な振る舞いではないからである。(…)たんに文学の領域にとどまらず、不意に自分が過去の自分とは異なる人間になっていることに驚いたり、自分が自分自身から徐々に離脱してゆく体験を語ったり、それまでの自分を精算せずに入られない気持ちにかられたりするということも、あらゆるところに起こっているだろう。だが芸術家であった自分自身を放棄し、従軍記者になりつつある自分を肯定することに甘美な快感を味わい、そこに新たな生活の出発点を認めたうえで、それを人類の大儀と真実といった文脈にまとめあげ、あえて読者に向かって誇らしげに宣言するといった振る舞いは、明らかに歴史的なものである。そうすることで救われる人間が存在するという社会が、あるとき形成されているのである。救われるのは、人類の大儀と真実を口にするその人にほかならない。そしてそんな風に救われる可能性を持っているのは、まさに芸術家そのものなのだ。」(同上)