風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

金儲けの哲学2

「善の領野は権力の誕生です。善の好き勝手な私有という概念は本質的なものです。この概念を前面におくと、成り上がり者たちが、その人生のどこかで好き勝手に私有するという復権要求の意味がすべて明らかになります。このことが実際の歴史において何を意味しているのかを明らかにしたのは私ではなく、フロイトです。自分の善〔財〕を好き勝手に私有すること、これが必ず混乱をもたらすのはご存知でしょう。この混乱がことの真の本性を示しているのです。つまり自らの善〔財〕を好き勝手に私有することは、他者の善〔財〕を奪う権利を持つことになります。歴史の運命がこれを巡って演じられていることは言うまでもないでしょう。問題はすべて、このプロセスがいつかは終結するということに、いつ人は気づくのかということにあります。というのは善の機能は当然ある弁証法を生みだすからです。他者から善を奪う権力、この強い拘束から他者がそれとして出現するのです。」(ジャック・ラカン精神分析の倫理』)
人間が買収されるということは一体何を意味するのか。まことに買収というものは歴史的な年月の重さをもつ有効な手段である。実際、金を受け取ってその義務を果たさないということをあえて実行することができたのは本当に優れた人物達だけであった。ほとんどの人々は金を受け取るとその瞬間に奴隷化されたのである。単に金を受け取らないことが問題であるのなら、なぜ買収はそれほどまでに威力を発揮してきたのか。金のあるいはもっと一般的に富といってもいいが、そのようなものを隷属することなしに受け取るためには自身が富によって保証されるような恐怖から抜け出していなければならない。もし人が貧困による恐怖を克服しているのなら、その人はいくら金を受け取ったところで自分の行動を変える必要は何一つなく、相手が買収できると思っている限り金を受け取り続けることができる。これを理解するにはグリム童話を参照にするのが一番いい。悪魔が富によって貧乏な人間から魂の手形を受け取るためには、相手が悪魔に恐怖して対抗できない状態になっていなくてはならない。そうでないと悪魔はその人間に騙されて金を取られてしまうのである。もう一つの記述は命と金どちらを選ぶべきかという問いだが、これへの答えはもちろん「どちらもいらない」である。人は悪魔を騙してもいいのだが神を騙すのは罰せられるのである。最後のパターンは人間を騙すというものだが、これに対する論理的解決策は、すべての人間からすべての富を騙し取ったあとですべての人間を報復から逃れるため殺すというものである。この最後のパターンは大概これを回避する為に王になるという選択肢が用意されている。王ならば人間を騙しても最終的にはそれでよかったのだということになるからである。ところでまさにこれこそがフランス革命で終わったのであり、その代わりに次のような命題が提出されたのである。「万人の幸福なしにいかなる個人の幸福もありえない」