風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

我らヒュベレボレアス族

いったい人はいかにして本を読まなくてすむようになるのか。逆になぜ私は本を読みたいと思うのか。もしかしたら現状を打破できるような知識や表現が身につくかもしれないと思っているからだ。そのために自身のことを考えることをおろそかにしているのではないか?まだ可能性を信じているのではないか?私がブログを始めるときの心構えを忘れてしまったのではないか。現在持っている知識で常に行動を考えなくてはならず、なにか決定的な知識が手に入るまで表現や行動を繰り延べしてはならないのだということを。学習学習とにかく学習だ。もしかしたら私は本の虫になっているのではないか。自分の感覚を放棄して普遍的なものだけを考えるように訓練されてしまったのではないか。自分の経験から出発せよ。だがそんな経験などのだ!面白いという感覚が失われていることは真面目さが支配している証拠である。人はなぜ真面目になるのか?自分に自身が持てずなんらかの信念にすがりたいと思うときからである。真面目とは自身が空虚に感じられるから、なんらかの過剰を産みだすために緊張をする口実を作り出す運動である。私が絶望しているということは充分すぎるほど表現されている。私は何か信じがたいものをのぞんでいるように思える。売られている本を見るといつも「この程度でいいのだろうか?」という疑問が浮かぶ。じゃあ私にそんなことができるのか、などと考えたくはない。できないのなら、どうしたらそれができるか考えることが問題だからだ。社会学者はあいも変わらず同じような形式でしか書くことができないのを悪趣味と感じないのだろうか?意味もなく、実体もなく、目標もない単なる世論に過ぎないのではないのか。おそらくこれこそ彼らが圧倒的に勝利してしまったことの症候なのだろう。真理が存在しないことは生きる意味を考えなくてもいいことの根拠にはならないのだ。もちろん「なぜ生きているのか」という問いはヒステリーの症候として形式化されているのは承知の上でだ。私も自分の感受性をそのままに文章に書くことに羞恥心を抱いている……。正直に言って私の文章が「病院文学」になっていない保証はない。この点でどんなにゲーテ的な感じ方に憧れていることか!まったく軟弱である。軟弱さを表現することが文学であるなどというのは一つの誤解あり、むしろ野蛮ですらある。デカダンスは病気をも利用できるほど健康な人間だけが使いこなせるものであって、病気と不満を感染させるためにあるわけではない。毎日どれだけの柔弱化の文化犯罪が私たちに向けられているか考えるだけでもぞっとする。誰でも不満を抱くことが義務であるなどというありさまである。人間の権利の名の下にどれだけ多くの分析と考察がなおざりにされていることか!人間一人では立ち上がれず、二人では起き上がることもできず、三人であれば地面にめり込む。上遠野浩平の「ブギーポップ・リターンズ VSイマジネーター」のあとがきにあるポップカルチャーの定義はかなり厳密である。①売れたものが良いものである。あるいは人に認められると言い換えてもいい。②ポップカルチャーは「手抜き」というもので成立している。つまり本物の模造品としてシミュラークルとして生産されており、より流通性が高い。③ポップカルチャーには原理的に権威というものは存在しない。さらに上遠野浩平自身の感覚を付け加えて④ポップカルチャーとは、ポップでない人間が時代錯誤を承知で作るものである。現代で行なわれている政策は、人に不断に恐怖を与え、その恐怖を商品を買わせることで安全を保証できると脅迫するのだが、「ブギーポップ」は恐怖を克服するための方法を教える商品だといえるかもしれない。とすればある意味では、私は本から恐怖を克服する方法を学びたいと思っているのだが、本がない恐怖をも克服したいと思っているのだ。