風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

書き込みと引用

なんらかの意味で奇跡がつまり救済のパロールがあると信じることは、どのような結果をもたらすのか。救済のパロールには持続力はあっても実行力がないため、そのパロールを信じ始める時点からあらゆるディスクールがあなたを「迫害」するようになる。人はたとえどれほど純粋であろうとも、権威は釈明を要求し、信者を決定的に沈黙させる。重要なのはパロールディスクールから引き離すこと、つまり救済の約束なしに実行することなのだが、これほど困難なこともない。それは自分に待ち受ける苦難や苦悩を無意味だとして認める立場だからだ。必要なのは、自身の声による不断の実行だけなのだ。
もう一度問いをやり直そう。私たちは現在の政治的状況の中で何が可能なのか。どのように生きればよいのか。可能なこと、それは常に現在あなたがしていることしかない。それは常に行き詰まりの感覚をもたらすだろう。だが可能性とはいつも他者の可能性にすぎず、社会的な夢や、利益計算を想像しているだけなのだ。行き詰まりの感覚だけが進むべき道を示してくれる。どのように生きればいいのか。私たちは何か生に関する基本的な知識を知るべきなのか。そのような知識を知ることができれば人生に意味を与えることができるのか。「論理的必然性のみが存在するように、論理的不可能性だけが存在する。」(ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』)または「あなたは私に言葉による答えを期待しているのに言葉以上のものを望んでいるのだ」。しかしこういってもなにか新しいことを言ったとは思われない。私たちが解釈する存在だということは、私がここに書き込みを行なうということはどういう意味なのかを考えることができるということにほかならない。「書き込みと引用」に対して書き込みと引用を行なうこと。出発点は体験の感覚であり、感覚を言葉という記号に置き換える操作をコンピュータによるディスクールに導入する。体験の感覚は言葉として記述されるまでは唯一無二の価値を持つものなのだが、それでは流通を行なう事ができないため、他の感覚を持つような存在に解釈可能であるような仕方で、言葉を導入しなければならない。しかし他者に体験の記号が解釈可能だということは体験の唯一無二の価値を否定的なやり方でのみ表現することができるということである。記号のさまざまな暗示作用は、その体験を一層深く、困難な仕方で提示しようとすることで価値を高めるのだ。他者が言葉を解釈できるという第二の側面は、その言葉を体験の否定的な記述としてではなく、純粋に記号操作として、つまり紋切り型として利用するということである。紋切り型が流通し始めるにしたがって、体験の他者には理解不可能な唯一無二性は体験の普遍性にとって代わられてしまう。人々に共通の経験を表現するということが価値を獲得するようになるのだ。この二種類の価値―――書き込みと引用―――は相互に対立しながら記述することでその矛盾点を明白な価値として提出できるという利点を持っている。一定の価値を獲得した普遍的な記述に対する理解不可能な唯一の体験記述。コンピュータはこの両者を混同してしまうように思われる。コンピュータは決して解釈する存在ではなく、言葉の流通の操作を可視化しているに過ぎないのであり、あくまで解釈の価値判断を行なえるのは別のコンピュータを使用している感受性を持つ主体だけである。コンピュータは消費財であり、その機能は流通を擬装する存在としての道具である。コンピュータはあたかも自身が書き込みをしたかのような顔をしてその場に立っている。実はただ不断の引用を繰り返しているだけであるのに。コンピュータの価値判断はあくまでほかのメディアと同じく、ディスクールにすることができるかできないかということだけであり、パロールを実行することは不可能である。コンピュータはあらゆる救済と同じく、そこで救われるのを待っている人間に希望を提供し情欲を奪い取る残酷な道具なのだ。コミュニケーションの不断の錯覚にのみ基礎をおいているコンピュータは、あたかもディスクールに書き込まれればそれは実現されるだろうと言わんばかりに理解可能性というものを先取りして提示する。本来ならば流通されることによってのみ、理解というものが行なわれるのであり価値として解釈される言葉が、すでに解釈を希望される存在として流通に入り込む。監視されない記号、神に見放されている無限のデータとしての文章。だからやはり神の恩寵にすがるということが救済の奇跡として演出されることになる。だがそうであるならば、体験の理解不可能な記述、流通できない記述もまた理解の先取りとして存在しなければならないはずだ。それがまさに引用を不断の自身の書き込みとして転化してしまうような方法論。そのための装置が「書き込みと引用」なのだ。