風鈴神社

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大衆宣伝の技術

宣伝における効果を挙げるための前提条件。
①宣伝は目的であるか手段であるか?―――宣伝は手段である。ゆえに宣伝はその目的に合うように有効に適合しなくてはならない。
②宣伝を行なうのは誰に対してか?学者か大衆か?―――大衆である。宣伝は学問ではなく、それは常に最も知的水準の低い層に向けて調整しなければならない。宣伝はけっして学問的要素を含んではならず、むしろその厳密な排除と情緒的なものをこそ取り入れるべきである。宣伝は学者や美的青年を感動させるためのものではない。
③宣伝は単純でなくてはならず、大衆の低い受容能力と記憶能力に合うようにスローガンのように繰り返さなくてはならない。堅忍不抜に繰り返すこと、それだけが成功の前提である。
④宣伝は一方的でなくてはならない。つまり無制限な、あつかましい、一方的な頑固さで大衆の主観的感情を極端から極端へと動かさなくてはならない。大衆の知識よりも信念を変える方がずっと困難だからである。宣伝の価値は客観主義的な真理ではなく大衆に対する有効性によってのみ計られる。
⑤新しいものを求めるのはインテリの悪癖である。宣伝は文学趣味に合わせるためではなく、大衆の求めているものを察知し大衆に確信を与えるためにある。それは常に断続的に与えなくてはならず、内容に変更を加えてはならない。

したがって大衆宣伝は学問的批判の対象にはなりえない。大衆宣伝をいくら学問的に調べたところでそれに対抗する方法が学問にあるわけがない。そもそも大衆宣伝とはそれ以前の情緒や感情の領域で行動しているからである。逆に大衆宣伝を学問的に批判すればするほど大衆宣伝の威力は高まる。大衆は批判されているものは何か価値があると見做すようになるからである。
「また民衆集会というものは、まず第一に若い運動の支持者になりかけているがさびしく感じていいて、ただ一人でいることで不安におちいりやすい人に対して、たいていの人に力強く働く同志の像を、はじめて見せるものであるから、それだけでも必要である」(アドルフ・ヒトラー『わが闘争』)ここで注意しなければならないのは、私たちはこういうことを知ったのだから、このことを他の人に広めていけばいいんだ、というふうに考えてはならないということである。そういうことが有効なのは、こちらの方が宣伝方法を相手方よりも多くあるいはより強力に持っていて、勢力的にある程度有利であるような状況でしか可能ではないからである。そういう方法は間違いなく弾圧や思想的敗北で終わる。理想的に言えば、相手の宣伝よりもこちらの芸術作品や思想などが大衆の欲求を質的により強く捕まえることができれば対抗することが可能かもしれない。着眼点は、大衆宣伝は知的水準を落とせば落とすほど有効なのだから、それとは逆の大衆の欲求に合う理念をうまく表現できれば良いことになる。ところでそのような「理念」は存在しないのではなかったか?芸術は政治的であってはならないのだから、ここには必ず憎悪による短絡があるのでなくてはならないということこそ、私たちの基本的前提ではなかったか?マルクス主義や近代的理念に反対し、さらにナチに反対するための基本的な立場とはこのようなものである。ファシズムが噴出するのは革命の(芸術運動の)挫折からだというベンヤミンの洞察こそ良く当てはまるだろう。だからといって政治的に対抗できる代案があるわけではまるでない。個人的レベルで芸術的抵抗を行なう場合にはどこまでそれが有効なのか。もちろんこの場合、マルクス主義や近代的理念による芸術運動というような形式ではありえない。それはよくいって「殉教」で終わるにすぎない。ある政治的暴虐に反対する理由すらもたないというような反対でなくてはならないであろう。だがその場合、人命に対する配慮などあるだろうか?むしろ政治的暴虐に代わって新しい人命の消費の仕方を提示するという方法が問題になるのではないのか。それが例え命など存在しないという形式であったとしてもだ。言い換えるのなら、敵を名指しするやり方が問題になるのではなく、自身が人類の敵であると断言するように、敵たりうる可能性を考えるということにほかならない。