風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

狼の中の羊は蛇のようにさとく鳩のようにすなお

もし「生きた貨幣」が命のない貨幣よりも価値が高く、したがって「生きた貨幣」の方が基準として流通されるようになったら、人は論理的に考えて自分の持っている命のない貨幣を「生きた貨幣」とどんなことをしても交換すべきだということになるはずである。しかし、このようなことが選択肢として現れるのは、「生きた貨幣」が存在すると信じたうえで、そちらに賭けた方が得になるという算段がついたときでなくてはならない。そのような場合にのみ、貧しい人たちに全財産を与えることが自分の得になるという言説が意味を持つ。だがそんなことはイエスの弟子たちですらありえないと考えているし、イエス自身が金持ちの場合だけだとしても「らくだが針の穴を通るようなもの」だと言っている。「いったいそれで、だれが救われるというのでしょう?」。注意すべきことは、イエスの基本的世界観は「持っているものはさらに与えられ、持たないものは持っているものまで取り上げられる」だということである。さらにイエスにとっては「生きた貨幣」であろうと命のない貨幣であろうと、利殖を図ることは善いことだと賞賛されていることである。逆に利殖を図らないものは「泣いて歯軋り」させられるのである。ただしやはり神と金は、つまり「生きた貨幣」と命のない貨幣は同時に目指すことができないと明言されている。

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せ」ということが可能なのは、これが何かキリスト教の奥義であり、実践不可能だが神にはすべてがなしうるとかいうことをすべて戯言として無視した場合、それは隣人が最初からただの媒介物、あるいは人格の容器のようなものだとしか見えていない人間にこそ可能である。だから「あなた自身のように愛する」事が可能になる。イエスの争うことの不可能性、嘘をつくことの不可能性、殺すことの不可能性、姦淫の不可能性、盗みの不可能性、父と母が信仰によってのみ現れるという意味で親子関係の不可能性はすべて人間は媒介物にすぎず、己と本質的な意味で対等な存在ではありえないという認識に基づいている。これによってなぜ心の貧しい人は幸いであるのかがはっきり分かる。信者になりやすいから、霊媒として使用しやすいからに過ぎない。まず前提としてあらゆるものを犠牲にするよりも身体感覚の麻痺という神への信仰が必要となる。我々は科学によってこの訓練を充分に受けている。イエスは動物には巣があるが人間にはどこにも居場所がないことを語っているが、福音はまさに身体の居場所がどこにもなくなったときに生ずるのだ。ニーチェはこう書いている。「どんな接触も痛ましいほど深刻に感ずるがゆえに、およそもう触れて欲しくない」(『反キリスト』)「すべての嫌悪を、すべての敵対を、感情におけるすべての限界と距離とを、本能的に排除する」(同上)。キリスト教はあらゆる文化の暗殺計画であるとニーチェが言うのはこのためである。それは英雄における闘争や、洗練された感覚といったものをすべて排除する。それはその文化を否定することによってではなく、否定することすらできないからである。逆にイエスを殺そうとしても単純にはいかない。「生きた貨幣」は本質的に殺すことができない。それは理解可能なものとならない限り「復活」するからである。あらゆる殺人からの亡霊譚を考えてみても良いだろう。「生きた貨幣」を殺すためにはディスクールにしなければならない。その方法とは何か。