風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

貧困の政治化に反対して2

私はあいかわらず「学問を芸術家の視点のもとに、そして芸術を生の視点のもとに見る」というニーチェの基本的観点で考えているだけである。政治も例外ではない。当然芸術のための芸術とか美それ自体とかいうナンセンスも問題にしていない。私は何度も言っているように政治経済学批判が必要ないなどとは言っていない。しかしここで問題なのは、美が政治を規定すべきであって、政治が美を規定すべきではないということである。政治的に規定された美には容赦なく批判を浴びせなくてはならない。ところで美の価値を基準にするにあたって、批判しなければならないものがある。それはマルクスの労働価値説である。たしかこれについてはうろ覚えだがアーレントローザ・ルクセンブルクが充分批判したと思うが、まだマルクス主義者が義憤を抱く根拠が、剰余価値にあるのを見ることができる以上、きっちり批判しておくに越したことはない。そもそも剰余価値とはマルクスが労働時間をあらゆる労働価値の価値基準としたことで生み出された概念なのだが、ラカンはこれをマルクス最高の享楽であると言っている。つまりマルクス自身が感じているブルジョワジーに対する嫉妬が、「剰余価値である(と見做される)」利潤に転移されているのである。ここには人間の労働はすべて計量することができる、つまり人間は自意識を持った機械だというマルクスの基本的な誤謬が表現されている。この認識以外に「正当な」報酬という概念が理解できる方法は存在しない。欲望にとって報酬は会話と同じように多すぎるか少なすぎるかである。すべての人間に対する「正当な」報酬はすべての人間の功利主義的な画一化以外の何物ももたらさない。労働力をある程度労働時間で計量し得るということと、その報酬が「正当」であるかどうかは別の二つの基準であり、それが一致したり均衡をもたらすという最終的ないかなる根拠もない。もし「正当な」報酬を得ようとするのなら、その瞬間からいかなる享楽も禁止される。自身の正統性を守る者は報酬を使用することができなくなる。残っている唯一のもの、それは苦痛であり、苦痛の価値判断のみが唯一正当な根拠として採用されるようになる。これが道徳であり、苦痛には意味があるという信仰にほかならない。このような人間にとって労働が楽しいとか、苦痛以外に意義があるなどということは一つの冒涜であり、そういう奴等は怠け者か、自分たちの富を奪っている仕事中毒者かのどちらかである。自分達の苦痛にはいかなる見返りも存在しない、と彼らはカントとサドとともに言う。なぜなら苦痛だけが自分が体感しうる唯一確実な、つまり「正当な」報酬だからである。