風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

仏教と永劫回帰

中勘助の「提婆達多」が余りにも天才的だったので、ほとんど仏教に憧憬を感じかけた。が、辺りを見回して思い直さずにいなかった。この作品を考えるのに私は手塚治虫の「ブッタ」を使いたい。というのも手塚治虫の「ブッタ」は「提婆達多」と比べると天才的なまでに駄作であるからである。「ブッタ」を読んでまず初めに思うことはどう考えてもブッタよりもタッタのほうが生き生きとして力強い形象であり、ブッタは貧弱で、どんな困難にも負けているということだ。悪人の方が圧倒的に生彩がある。それに悟りを得ているのはブッタのほうではなくむしろブッタの弟子たちのほうであり、動物に超能力を使ったり、すべての人間は繋がっているということを喜ぶのなどは手塚治虫が仏教のことをわずかたりとも理解していなかった証拠であると言ってもいい。ブッタはまさにその「輪廻」を抜けることを教えたのだから。どこまでも手塚治虫のブッタは嘆かずにはいられない。「ブッタ」は圧倒的に歴史的スペクタクルに属しており、新約聖書というよりは旧約聖書を思わせる。この点で手塚治虫の「ブッタ」は傑作なのであって、仏教物語としては似非キリスト教のように陳腐であり、ただの日本的な無常観にすぎない。中勘助の「提婆達多」にでてくる「仏陀」は、対照的にどこまでも冷たく慈悲深い。世界と勝負などしていないし、人々の苦しみをなくそうとするのは、義務からではなく、実践として行なわれている。もちろん題名の通り私も提婆達多の方に多くの感情を持っている。中勘助が小説として、貴重な芸術作品として提出してくれたおかげで私は作品内の世界で仏陀が完全に提婆達多に勝利しているからこそ、仏陀よりも提婆達多の方により多くの勝利があると感じている。提婆達多が救われなくて誰が救われるだろう?まさにその通りだ。だからといって私が永劫回帰よりもこの物語が深いなどと考えているわけではない。まちがいなく「提婆達多」は問題を提出しているし、中勘助仏陀に対する提婆達多の執拗な「復讐」を書いているところからも、ニーチェの影響があるかもしれない。それでも永劫回帰のほうが「問題」だと私は感じる。仏教的な憂苦滅却ではなく、提婆達多のように夢のような苦痛の人生を悩むのでもなく、人生をそれ自体として肯定すること。手塚治虫が「火の鳥」でヒューマニズムの極限として考えられた道徳的御伽噺の数々を当然のように足蹴にすること―――この点では「ブラックジャック」の方が圧倒的に問題であり、現実的である。不死はその空虚から逃げた結果にすぎない。無論我々がその御伽噺を実現しつつあることは事実である。仏教が欲望を解決できなかったことは、資本主義の勝利とともに本質的な事柄をなしている。永劫回帰―――シミュラークルとしての目的―――そして現実体験。なぜニーチェが末人を攻撃し続けたのかといえば、末人と永劫回帰は存在論的には同一だからである。まさに同一でありながら無限の差異がある、騾馬とアンチ騾馬、騾馬崇拝の背後というよりは風景にあるもの。しかしやはり―――永劫回帰を万人に説教することなどどう考えても不可能である。「万人のための、そして何人のためでもない書物」。ニーチェを道徳的立場から批判することほど簡単なことは何もない。というのもあらゆる悪事はニーチェのせいだと言えばそれで批判終了だからである。しかしニーチェがまさにそれを望んでいることを考えるとニーチェ批判はまったく簡単でないことがすぐ分かる。私がニーチェに対する反論として現在かろうじて認めているものはコンピュータだけである。それも永劫回帰はくみつくせないのではないかと疑っている。ゲオルク・ピヒトが言っているように、ニーチェ完全に肯定される以外に乗り越える方法はない。それはまさに科学の原理的に誰もが理解できることに価値を認めるという形式から、原理的に誰もが理解できないことに価値を認めるという魔法の形式の価値転換と等しい。だからそれは新たな蒙昧主義や神秘主義の危険性とともに現れる新しい神の復活なのだ。