風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

認知症的認識論と普遍的不可能性

「つい最近[トーマス・マンの]『ブッテンブローク家の人々』で偶然チフスについて読んだ。そしてハンノB.が最後の病気で、どんなふうに一人の友人を除いて誰もわからなくなったかについて読んだ。そこで私の注意をひいたのは、一般に人がこのことを当たり前とみなし、当然だ、いったん脳がそこまで損なわれたらそうなるのはまったく当然だ、と考えているということなのである。だが、なるほど現実には我々が人を見て誰か認識できないというのは普通に起こることではないというものの、我々が「認識」と呼ぶものは、それを失っても劣等とみなされることなく突然失われる一つの特殊な能力にすぎないのだ。私が言いたいのはこういうことだ。我々が人間を「認識する」のは当たり前のことであり、もし誰かが人間を認識できないとそれは完全な崩壊であると我々は考えているように見える。しかしこの認識という石が建物から欠けることは実際にありうるのであって、その場合も崩壊が問題になったりしないのだ(他方この思考はフロイトの思考と、言い間違えに関する彼の思考と近い間柄にある)。」(ウィトゲンシュタイン『哲学宗教日記』)
「八一 つまり、私がある種の誤った説明をすれば、そのことによって、私がその言明を理解しているかどうかあやしくなるのだ。」(ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』)

言葉を語るということが、どうして何かを理解するということにつながりうるのか。私は言葉は理解させることではなく認識することに焦点があるのだといいたい。ニーチェの言語観的に言うと、認識は闘争であり、憎悪や怒りや嘆きや笑いをやりこめるための運動だということだ。

私は私の好きな人と嫌いな人では違った認識を持つだろう。それにもかかわらず相手が人間一般であると認めているということだろうか。たとえそうだとしても、私が人間一般であるということにはもちろんなりえない。これは私の固有名、つまり「けめくじ」が人間一般ではないということではない(おかしい文章だ。けめくじはまぎれもなく人間一般ではない)。もっというと、私は相手が精神的な能力を持ち、言葉を語ることができるのだとしても、相手が人間という特異な動物であるということは認識できるのだが、それがなぜ私と関係しているのかがわからないのだ。私が言いたいのはヘーゲルマルクス的な人間は社会的に規定されているという区分でもない。社会関係の視点から見ればまちがいなくこの「私」には人間関係があるのだ。論理的に言うなら、社会的な対象関係によって生み出された対自意識が社会的抑圧による自己疎外によって社会を即時的に認識するようになり、それが社会的排除によって完全に社会との関係が切れてしまい、抑圧された奴隷意識だけが残っているような存在だと言っていい。この意識にとっては、私にとって文字どおり人間という動物がうようよしている世界である。この「私」は人間が言葉を操り、相互的なコミュニケーションによって人格を承認しあうということを知っているのだが、それに入るためには、常に自己意識に対して相手からの誤解だけが言語ゲームの基準となるような存在‐生成である。というのは社会的意識にとってはこの存在を理解、あるいは人格的に承認することはなにか齟齬をもたらすからである。この人間にとって侵害というものは存在しない。というのは侵害によるいかなる享楽も存在しないからであり、「私」にとってそれは社会的関係において必要なルールであるというにすぎない。「私」は所有権を盗む権利を与える意志という風にとらえる。プルードンのように所有とは盗みである、ではない。つまり「私」には所有権という概念を本質的に持たない。持ち得ないというほうが適切である。つまり「私」は盗みが不可能であるということを知っているのである。「私」はものを使用するのであって所有するのではない。だからといって「私」が労働しないというのではなく、労働が人格の承認であるということを理解できないのである。よって「私」はたしかにある意味で労働しないといってもいいかもしれない。労働というものに対する責任というものを持っていないからである。これは誰かに責任を譲渡するという意味での無責任ではないし、ましてや他の人間を徴募して権力闘争を行なうという責任も持っていない。「私」にとって労働は社会的に手段である(個人認識的にではない)。普遍的侵害(サド)でもなく普遍的共有(マルクス)でもなく、普遍的な不可能性に基盤をおいた「私」。サドにおける身体的所有か貨幣的売春かというジレンマは所有の不可能性によって「生きた貨幣」となる。