風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

トマトケチャップ皇帝の統治

「とくにルソーが提起した「幼年期とは何か」という問いはきわめて重要である。これに対してフロイトは、次のように応じている。幼年期とは、欲望において、また欲望によって、さまざまな対象のさまざまな表象に結ばれた快楽の行使において、またそうした行使によって、主体を構成する騒乱の舞台(セーヌ)である、と。」(アラン・バディウ『世紀』)
オタク文化(私はこの呼び方があまり好きではないのだが)の偉大さの一面とはまちがいなく子供の性欲の多形的倒錯を表現しようとする意志にあったことはまちがいない。教育によって、あるいは子育ての方法とかフェミニズムとかによって無視され、抑圧されてきた側面がすべてここに流れ込んでいく必然性はそこにある。コミックマーケットの膨大な同人産業の、あるいは動物的な消費の発明は子供の多形的倒錯の無際限な特徴に一致する。ここで注意しておかなければならないのは小児性愛がいかがわしい大人によって担われているといった道徳憤懣ではなく、多形的倒錯の産業的次元における子供の性的解放ということの方である。問題は大人が子供を性的享楽の道具にするということには本質的にはない(もちろんそのような犯罪がある程度のレベルまでは防止されることは前提として)。逆に子供が親や大人を自由に使用して性的享楽を好きなように行うという観念こそが怖いのだ。性的解放が叫ばれているにもかかわらずいつもここが暗黙のうちに禁止され無視されているがゆえに、産業はこの子供の多形的倒錯を飼いならすことに成功したのである。子供の性的欲求が大人や親達で満足するなどということは到底考えれない以上、子供たちが自分達の多形的倒錯のために際限なくおもちゃを作っていくことは予想できることであるし、これが最終的には軍事的名誉というおもちゃになるということもまた簡単に予想できることである。子供に関係のない唯一のもの、すなわち政治に子供という問題が載せられたことは良くも悪くも一つの変化だといえる。このレベルにおける野蛮さが常に「子供とは一つの無垢であり、一人の天使であるといったように、饐えた臭いがするわれわれ大人が喪った夢のすべてが子供の無垢性に仮託され」(同上)るような容器としての子供の無垢性を破壊する陵辱や家族の近親相姦的なファンタジーを暴露していることは我々の社会の偽善性を告発するものとしてみるかぎりは正当なものである。バディウの言うとおり「人殺しの母親や近親相姦する父親というイマージュ」はほとんど口の端にすら上らない。それが語られたのはサブカルチャーだけである(たとえば私としては、ここでの記述から外れるが『dot.』という映画がお勧めである)。もっとも現在の「悪」というものがあるとしたらそれは子供に対する無関心であるだろうが。これには当然家庭内(外)暴力を振るう子供というイマージュが対置されなくてはならない。子供にゲームをやめろといくら言っても無駄なのはこのことを理解しないからだ。もしこのレベルでこういったことに反対するのならば、子供の性的欲求を無視するなどという方法では到底それを有力なものにすることなどできないであろう。ラカンの言うとおり、多形的倒錯を「寛大な道徳」によって飼いならすことはいかに反発を招くものであるかという事実は、倒錯を「正常な」性的関係という次元で解決してはならないということを教えてくれる。なぜならそれこそが悪循環―――享楽せよ!という享楽の禁止―――にほかならないからだ。精神分析的に言えばここからの出口はラカンの「欲望に譲歩するな」という立場によってしか抜け出せない。仏教では多形的倒錯の魅力に対してまったく無力である。これはニーチェの「権力の意志」の概念と同じように幸福ではなくたいがい不幸への道である。しかしここでいったい何を欲望すればいいのかという単純な疑問が上がる。あらゆる善(財への欲求)を捨て去るに値する欲望とはいったい何なのか。もちろんカントの「善自体」が存在しないことを受け入れた後にである。いままで探求してきたことはまさにこのことを「発見」あるいは「発明」するためのものだったし、同じことを繰り返していたのはこのためであったこともわかるはずである。だがこのことは普遍化することはできない。将来の世代の幸福が問題であるわけではないのだから、普遍的な存在になること、あるいはなろうとすることは可能でも普遍的な理念が見つかるわけではないのである。だから残っている唯一のもの、それは欲望を維持しようとする欲望でしかない。議論が前進しないのも同じことをぐるぐると繰り返し違うヴァリエーションで語るのもまさにそのためだ。だがそのことが批判されるとしたらどうなるのか。書かないというやり方は不可知論にはまってしまうし書くというやり方は言語ゲームによって語り続けるというウィトゲンシュタインを困惑させた私的言語の領域に入ってしまう。これは私の書いていることの無力さを証明しているだけでほかに何の意味もない。