風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

アプリゲームにおけるゲーム内貨幣の概念

欲求のヒエラルキーとは抑圧の経済的形態にほかならない既存の諸制度が基体の心的活動が持つ計測不能の諸力に対して基体の意識を介して基体の意識によって行使する抑圧のその経済的形態にほかならない。」(ピエール・クロソウスキー『生きた貨幣』)
「われわれはともすれば、情動の「経済」と、交換によって定義される欲求の経済とのあいだに、純然たるアナロジーの関係を設定してしまいがちである。しかしこれは、情動がその不適切な定式化に対して行なう戦いを、われわれが、対象物欲求の観点から出発して見出すのでないかぎり、何の役にもたたないのだ。情動の不適切な定式化とはつまり、情動を物質的なレベルで財の要求の状態へと転換してしまうことであり、財の要求は情動には正反対のかたちでしか対応していないのである。」(同上)
アプリゲームにおいてざっくらばんに分析するためにマクルーハンの言う「あるメディアの内容を形成するのはそのつど別のメディアである」というだけにすぎないゲームは分析の対象外とする。もちろんアプリゲームの特徴の一つがスマホによってどこでも手軽に簡単にできるということは承知している。このタッチパネルという概念は認識論的には発狂しそうなくらい恐ろしいものなのだが、ここでは扱わないことにする。少しだけ言っておけば、これは間違いなく身体的感覚の混乱に一役買うだろうと間違いなく言える。なぜなら人間は基本的に空間認識を触覚によって行なうからなのだが、画面を「直接的に」動かせるという認識はまちがいなくこの空間認識を侵食する。中立的な立場はおそらく存在しなくなるに違いない。だから魔法なのだ。ここで問題にするアプリゲームとは、仲間を作って、敵と戦い、課金要素があり、行動制限があるようなゲームである(そういうものがないゲームでも、まさにそういうものがないとして認識される以上、ここでは同じものとして扱う。先取り的に言うなら、フリーゲームの方はこれに対抗するようなゲームが作られる傾向を示すかもしれないとは言える)。さて上のクロソウスキーの引用から少しずつ考えていこう。まず第一の引用は愚かなぐらい単刀直入に言うとキャラクター(カード)の形態をさしている。キャラクターがガチャから出てくるという形式は欲求のヒエラルキーの経済的形態以外の何ものでもない。そしてまさにキャラクターがカードとしてあるいはアバターとして形式化されているという事実が、プレイヤーがそのキャラを使用する(あるいは抑圧から解放する)ということの、使用する欲求を持つことの本質的理由にほかならない。ここで我々は第一の飛躍に出会う。なぜ直接にゲームを享楽することができないのかという疑問である。ここでチェスなどのボードゲームのようなものはそうじゃないとは考えないように注意しよう。ウィトゲンシュタインの言うとおり、あらかじめそういうゲームにはルールを知っているプレイヤーが前提とされているのでなければならないからである。ここで重要なのは二つ目の引用の方の欲求が物質的な財として不適切に転換されるということの方である。だがここではそのあり方が転倒している。キャラクターの方がそのゲーム内世界での物質的財を直接欲望できるようにプレイヤーの人格的統一性(抑圧)となるからである。つまりこういうことなのだ。プレイヤーの方はキャラクターの使用の代価としてキャラクター自身が物質的財を情動のおもむくままに消費できるのを見ていなくてはならない。もちろんここにこそプレイヤーが情動を満足させるための回路が存在する。それはあくまでキャラクターを通した間接的なものである。しかしそれこそが社会的評価と本質的には同じものだということを洞察していればそう簡単にこのことはナンセンスだとは言えないはずである。当然プレイヤーの欲求はここでは倒錯している。だがまちがいなく社会的評価のほうも倒錯している以上、問題はなぜ直接的に欲求を満足させることはできないのかということに戻る。というのも単純にネット以前のゲームでもここまでならだいたい同じであるからだ。この問い維持したまま次の課金と行動制限ということから見てみよう。