風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ムカシムカシノオハナシヨ…3

しかし、と人はいうだろう。その人が本当に精神錯乱だったらどうするのか?と。私としては本当の精神錯乱というものが存在するなどと言うことは全然信じられないが、ここではダリの言葉だけで勘弁してもらおうと思う「私と狂人の違いは私は狂人ではないということだ」。人は必ず現在の生活諸条件から狂気を分類しているという初歩的なことをかくも現実には簡単に忘れるものなのだ。それもそうだろう、だってもしそうしないのなら自分も狂人だということになるのだから。ところで狂人の言ったことだからといって罪がないと言うことには決してならない(法律的な意味ではもちろんない)ということも人は忘れているのではないだろうか。スヴィドリガイロフもこう言っていた。「亡霊が病人にだけ現れるということは、私も認めます。しかしこれは、亡霊が現れえるのは病人にだけだ、ということを証明するだけで、亡霊そのものが存在しないということの証明にはなりません」(ドストエフスキー罪と罰』)。現在ではかくも多くの幽霊が徘徊しているというのに狂人が相変わらず狂人だと考えられていることの何たる俗物性だろうか。精神分析を俗物性から取り戻せ!狂人が言ったことだからといってそれが誤っているということには決してならない。そしてそれが危害を加えないのだということの証拠にもならない。自身が狂気だと認識していない狂気があるのではなく、幼稚な、つまりひたすら常識的であり、理性的であり、少しも誇大妄想的でない軟弱な狂気があるだけなのだ。「人間的なことは何一つ私と無縁じゃないんだよ」。話をもとに戻そう。私がここで考えたいと思うのは不死身の生命力を持ってあらゆる障害にもかかわらず人を助けようとするあの狂人達のことである。ここでは本当に直接的な意味で善を行なうために不死が要請されている。いったいなんなのだろうか、この威力は!かくも人を感動させるこの手口は!仮想空間では人は死なないということはいくらでも最高善のための道徳的な神がいましますというわけなのか。仮想空間においてこそ悪は意味のないものであるはずであるのに悪は倒されるものとして存在しなくてはならないのか。そもそも悪とななんなのか。球磨川禊の姿をとって現れた「弱い悪」。あのどこまでも生成論的に物事を考えざるを得ない、そしてどんなにがんばろうとしてもあの胸の中が決定的に欠落しているという絶望とそのためにあらゆる努力が無化されていくことの自分自身への失望。一瞬でも努力をやめればどこまでも墜落していきウィトゲンシュタインのように必死で水上に浮かび上がろうともがくときの徒労感。一切が最初から負けていき、負ければ負けるほどやりきれなくなっていき、そしてがんばっていないという言葉しかかけられないことへの憎悪と、その理解への越えられない無力さがどこまでも自分を追い詰めるときの苦痛が。こういったものを生成の無垢さに置き換え、人類を滅ぼすことの朗らかさ―――当然人類は明るく滅びてもらわなければならない。そうでなければ彼らは「正義の報復」をするだろうからだ。人類が義憤を発しないような滅ぼし方とはなにか?人類の絶滅を願うことだろうか?しかし願いの、無為の罪というものがある。無為識がそれを行うということか。しかしそれは超自我が知っている。そう、だからこそ空々空なのだ。空々空でしかないのだ。だが、だが、だが………。