風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

幻覚剤的闘牛士2

コンピュータがひとつの擬装された悪循環としての神だというのなら、コンピュータは当然集団的ケースの情欲の味方であろう。コンピュータは情欲に悪循環を仕掛けるのだが、それは集団的ケースに有利なように、いうなれば集団的ケースに害を及ぼさないように情欲をシュミラークルに変換するという仕組みそれ自体のシミュラークルだといえる。コンピュータが人間と同じように本質的にシミュレーションする存在だというのが決定的である。だからここで必要なのは、コンピュータは情欲を隷属させるのではなく、循環させる―――ただし無害に―――という事実に対して集団的ケースに危険を与えるような、そんな一つのシミュラークルを発明することなのだ。そもそも情欲を消費するとはどういうことなのか。それは他の情欲を無慈悲なまでに手段として利用するということである。情欲は民主主義によって手段となるように矯正されているのだから、民主主義的な理念を最後まで推し進め、いっそう情欲の消費に対して無防備で、利用されやすい奴隷を生産することが必要であろう。もうひとつは専制君主、独裁者の生産とでもいうようなそんな抑圧体系を発明することである。国家を理想的な専制君主や独裁者を誕生させる手段として利用すること。しかしここでこのような「高貴な人間」たちが他の人間を支配するというようにするという風に考えてはならない。そうではなく、「高貴な人間」の情欲に隷属することで、情欲の奴隷達が自らの価値を生産するように仕向けなければならない。政治的な独裁者はすべからく民衆の情欲の、つまり集団性の奴隷だからである。しかしこれだけではこれらの企てが工業的な諸価値に奪われることはまず疑いのないように思える。そもそもクロソウスキーの「ニーチェと悪循環」でもこのことが問題となっているのだ。他の情欲を手段として利用するということは少なくとも次の二つのことが前提条件となる。一つは人命の大規模な消費、もう一つは理性的なものに対する無意味な情欲の勝利である。なぜならここで敵対しているものは、人間という種族の際限のない繁殖と、人類という人間種族を表現するシミュラークルであるからである。人間は自らの信仰に従って他者を殺せるようにならなければ、その信念が勝利しているとは到底言うことができないであろう。ある理念に対する狂信はその理念の情欲の隷属の強度を測る一つの尺度である。というのも人間を殺すということが集団的人間にとってはひとつの信仰の表明の仕方だからである。もちろん私はここで本当の信仰については何も語ってはいない。私が反対しているのが禁欲主義ではなく禁欲主義のシミュラークルであるのと同じことである。人間を殺すことで信仰が証明されるなどと言うことはただのナンセンス以外では何ものでもないが、しかし信仰は必ず情欲の消費による誤解を被るのであり、情欲とシミュラークルの関係について前回語ったとおりである。ところで情欲の野蛮さは、その情欲によって創造されるシミュラークルによって決定する。野蛮さは集団的なシミュラークルを破壊するためのシミュラークルの形式を決定するが、野蛮さの強度はそれが集団的ケースに効果的な攻撃を与えれば与えるほど高くなる。だが野蛮さはそれ自体としては集団的ケースに動揺を与えるほど強力ではない。集団的ケースに対抗するための野蛮さとは、集団的ケースのおける有用性の消費が新しい野蛮なシミュラークルとの対比において「無用な」消費が上回ることが必要なのだが、ここでも問題なのはコンピュータの仮想消費がどれほど現実に影響を与えるかである。純粋に唯物的な基盤に立つ場合よりもコンピュータの仮想消費の方が情動をより多く消費でき、より多くの野蛮のシミュラークルを引き起こすことが可能なのではないか?現実原則が存在しないという現実原則を持つ電子空間における無際限の仮想消費が。だがそれが集団的ケースに危害を加えるためには、それが現実との確信犯的な混同を引き起こさなければならないのだ。