風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

反知性主義(犯血聖主義)

知性というものは果たして存在するのかということ―――知性が成り立つのは、カントの善自体が何らかの意味で有効に機能している状態でしかありえないのではないのか。知性とは情動の一つの錯乱した、自身が情動ではないと言う情動ではないのか。知性は一つの狂気ではないのか。それも制度によって政党(正当)とされた狂気ではないのか。ある党派、国家、団体において精神錯乱ほどありふれた、正常な状態はないのではないのか。逆に言うなら、反知性主義とは新しい知性化される前の情動の野蛮さにほかならないのではないだろうか。反知性が野蛮であるということは、ある別の種類の知性化されていない情動を否定することに等しい。そしてもしある制度化された知性のシミュラークルが存在しないのならば、情動と知性の区別はつかず、純粋により情動の強度が強い方が知性を僭称することになるだろう。情動は他の弱い情動の数々を隷属させるのだから、高度に洗練化され、分析され、専門化され、要するに柔弱化された知性が隷属されて臨終の悲鳴を上げざるを得ないと言うのは正当なことである。そのことが意味しているのはひたすら彼らの知性が「良き趣味」であり、専門化されており、要するに冷静で、少しも熱狂的でなく、すでに死んでいると言う事実に過ぎないのである。この反知性主義が野蛮で血に飢えている徒党に他ならないというのはまさしく確実であり、柔弱化された趣味をもつ知識人たちがその餌食にならざるを得ないというのもまた確実なことである。新しい理念あるいは共同体において新しい野蛮さが洗練化された高度の文化をなぎ倒すと言うことほど歴史において繰り返されてきたことはない。これはこの数十年のあいだの日本文化におけるルネッサンス―――私が言いたいのは、あらゆる種類の漫画、ゲーム、音楽、映画、その他諸々における古典主義の再生、それはおもにグローバリズムがもたらした文化的恩恵の最もよい面の一つであるのだが―――がその野蛮な面をあらわにし、ついにその政治的経済的ヘゲモニーを奪うところまで成長してきたところの帰結にほかならない。本質的な意味ではこの文化的な恩恵の影響がまさにどれほどの解放をもたらしたかを言うにはいくら感謝してもしきれないぐらいであるが、そこに原発と言う巨大な鎮座物がいましますようになったおかげで、この文化的ルネッサンスに最初の攻撃が仕掛けられたのである。人々はこの原発のおかげでこの文化的ルネッサンスがどういうものであるのかを「認識」し始めた。そこで彼らはそのことについて昔ながらのお説教を仕掛け始めたのだが、しかしそんなものでこの文化がとまるわけがないので、彼らは自ら知性を標榜し始める。一方、原発によって致命的なまでに恥辱と自身の無力さを思い知らされたこの文化は、自分達だけがこの状況を変えられると「確信」するようになり、新しい文化をあらゆる場面で適用する―――つまり押し付けるようになったのであり、自らの恥辱を克服するためにいっそう野蛮にそれを推し進めようとし始めるようになったのである。