風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

電子空間の価値転換

まったく前代未聞のことが起こったとしたらどうだろう。例えば家々がはっきりとした原因もなく次第に蒸発してしまう。あるいは牧場の動物が逆立ちをし、ほほえみ、人語を発する。あるいは立ち並ぶ樹木が次々に人間と化し、逆に人間は樹木に変る。こうした奇怪事をすべて目撃しながら、私がなおも「私はあれが家だということを知っている」等々、あるいは単にあれは家である等々と言ったとしても、私は正しいことになるであろうか。(ウィトゲンシュタイン『確実性の問題 五一三』)
現実原則をあくまで侵犯しようとしているのに、なぜ私は恥ずかしさの傾向を否定しようとするのか。それは恥ずかしさが一般化すると、羞恥心の欠如による人間の堕落が起こるからである。羞恥がないのなら、美も、特異性も、なにもありえず凡庸さと自己軽蔑の欠如だけが増大しかねないからである。だがこれこそすべての現実原則の破壊ではないのか。つまり私が望んでいるのは現実原則の侵犯ではなく、新しい現実原則の確立だということであり、それはコンピュータにおける電子空間において起こらなければならないということだ。というのも電子空間においては、現実原則と侵犯の関係が逆転するからである。電子空間に現実原則が存在しないということは、現実原則を導入するということがすなわち侵犯になるということだ。もう一個のジレンマはコンピュータ内での特異性の問題である。電子空間において唯一欠如している空虚を持っている存在こそ、「特別」だと言うこと。電子空間においては凡庸であることが、普通であり続けることが特異性であるということ。では電子空間で「普通に」生活するとはどういうことなのか。現実世界との関係を逆転させること、つまり現実世界こそが彼岸の生であり、「真の」世界であるということ。死後の生があるということではなく、死の世界があるということを信じること。電子空間ではあらゆるものが生成する以上、自身が消滅する存在であるということが、一つの信仰となるということ。電子空間においては装飾過多は凡庸性の兆候になるということ。つまり装飾がなければないほど特異性に近づいていくのだ。というのもいくらでも装飾が可能であるからである。現実世界と電子空間との装飾の差異が少なければ少ないほど、その存在は特異性に近づく。電子空間のおいてもどんな能力をも持つことができない存在こそ、特異性と呼ぶにふさわしい。