風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

穢れなき新世界

「私なら百倍も大きいスキャンダルを巻き起こすことができただろう。それも『本質的な理由』からだ。素朴な反教権主義者よりも、過激なカトリック教徒のほうがいっそう破壊的なのだ」(ダリ『ダリ全画集(ロベール・ディシャルヌ/ジル・ネレ)』)
「大いなる悲鳴」があらゆる意味で人類をよりよい方向に向かわせたということは、つまり人類にとって求められているのは、本当に平等で公正で無意味な天変地異だということだ。これだけが人類を救うために必要な方法なのだ。寛容で平等で自由な精神にとって、いかなる暴力も差別も拒否すべきだということになるのなら、これこそ真に望ましいことであろう。つまり定期的に天変地異、あるいは大きな事故が起きることが全体主義に反対するための最も適切な方法だということ。人間は事故や天災に慣れて、これが正常な社会の消費サイクルだと受け入れなくてはならない。そのためには科学によって定期的に産業にとって無害な事故が起きるように調整しなければならない。そして事故で死んだ人間は何よりも消滅しなくてはならない。というのは死は決して存在しないからである。死者は死者をして葬らしめなくてはならない。人間が死ねば死ぬほど助け合いは価値を増すことになり、自由はいっそう増大し、エネルギーはよりいっそう万人にいきわたり、そして「民主的」になる。話し合いは許されているが現状を変えることは許されないから、我々はますます事故を、天変地異を崇拝する。つまり憎悪する。科学はこの点で人を無差別に殺すのにかくもすばらしい成果を挙げてきた。もっと匿名的で無差別でそして大量に原発事故がすばらしい成功であったことは疑いを入れない。放射能はまさに理想的な「概念」であり、人が無差別に無意味に死ぬのにこれほど有効なものはほかにあるだろうか?これこそ「平等」であり、これこそ「自由」ではないか?我々は今からでも放射能を讃える英雄詩を書かなければならないのではないのか。核兵器は人類にとってすばらしい遺産になるだろう。人類は放射能に感謝するべき理由が数多にあり、これほどまでに人類を「救った」放射能にますます敬意を払わねばならないだろう。次々と問題が出てくる!解決し、人道化し、ポーズをとることや、祈りとか、感謝とか、感動とか、奇跡とか批判とかありとあらゆるものが再び可能となった!目標が、何のためにの答えが、とりあえずこれをやっておけばいいという障害が現れた!どれほどの義憤が、政治化への、革命への、権力への意志が可能となったことか!こうなれば日本中の原発が爆発しなかったことについて、日本が本当に「同情すべき」状態にならなかったことについて残念に思わざるをえない。そうすればもっと国際社会の同情が得られたのに!ファシズムのせいで同情が半減したのはさらにまた残念だ。放射能は国家主権などという概念に縛られることのない自由な存在なので、そんなものに殺されることなどありえないのだが。科学がデモクラシーを進めるということは本当であり、放射能こそ第一級のデモクラシー推進者であると言うこと。人類をかくも平等で自由な存在にしているということ。この無意味な死が科学によっておこなわれた大体的な人類の消費、人体実験であるということ、科学のすばらしい理念を証明しているということ。これはヴィリリオが言った「清潔な戦争」というものそのものではないだろうか。