風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

廃棄物によるキリスト

もし原発事故が穏便に収斂し、何もかも平和的に迅速に解決されたとしてみよう。その場合、いったいいかなる事故が平和の絶望的な倦怠を打破するのかという不安が起きないだろうか。我々は原発事故が収束することを怖れているのではないだろうか?原爆によって手に入れた平和が、同じ原子力よって脅かされるという事態を前にして、いかなるものがこの悪循環を打ち破るのか。

ここで賭けられているものがすべての集団的衝動に対する個人的衝動の優位性にあるということ。というのも、これほどまでにエネルギーの消費の問題が実際的な問題として突きつけられたことはないからだ。問題が原発が電力が足りるか足りないかというところにあるのではない。我々があらゆる人命を犠牲にしたとしてもエネルギーを無際限に消費できる可能性が賭けられているのだ。もし科学的エネルギーの消費を抑制したいと望むのなら、科学的エネルギーよりも強力な情動を満足させるエネルギーが与えられるのでなくてはならない。つまり情動的な消費が科学的エネルギーの消費を超えるか、あるいはまったく別の次元でその強度が測られるようなことにならなくてはならない。魔法とは、ある意味ではこの別の種類のエネルギーという役割を果たす。ただし魔法は電子空間にしか存在せず、その電子空間が現実に対して核兵器を上回るような影響力を行使しなくてはならない。つまり人間の情動(享楽)が核兵器によって維持されている秩序を破壊するほどに消費されなくてはならない。電子空間が現実を侵食し、電子空間と同じ振る舞いを現実にさせるのでない限り、決して情動の満足というものは起こらないだろう。

人間が無際限にエネルギーを使うことができないということからは、エネルギーを無際限に使ってはならないということには決してならない。そして我々が反対しているのは、まさにこの譲歩に対してなのだということ。この譲歩は人間にとって非常に高くつく。直感的にこれは人間の家畜化を意味することになるだろうと理解できるからだ。絶えざる娯楽の洗練は、人を堕落させる。

人間の命を消費することに意味を持たせることの必要性。人が同意しないのは、無意味に死んでいくということであって、けっして死を恐れているからではないということ。そして民主主義は絶えざる啓蒙によって死の意味を決定的なまでに破壊するのである。しかし私がここで人間の命を消費するという表現をするのは、生政治によって、人間の人口を調整するという言い方をしないためだ。というのは人間の命を増やすことに価値があるのは、人間に価値がある(労働価値であれ、戦争をするための兵士の調達であれ)場合だけだからである。人間の命を助けることに価値があるのは、その人間に何らかの意味で価値がある場合に限られる。人を助けるというのは一つの贅沢にすぎず、無条件で人間を助けるというのは、その人間が明白に自身の価値を持っていない証拠である。そこで私は問わなければならない。現代の不幸な人間、排除された人間、被災者、暴力の被害者たちはいかなる意味で助けるに値するのか、と。もしこの答えが工業的な(ということは「人道的な」)意味しかないのだとするなら、彼らのうちで生産生のないものはいかなる意味でも助ける価値はないということになるだろう。つまり資本主義において排除が必然的であり、かつ彼らが存在する意味が事故にあって無意味に死ぬことでしかないというのなら、彼らが人間を消費することに意味を見出すとしても、そのことはまったく自然ではないだろうか。

科学的な洗練は、そういう人間たちが自らを滅ぼす装置を生産する。というのは工業化現象にとって、それすら商品価値を持つからである。人間を消費することをシミュレートするリアリティの追求と、その擬似政治的実現。つまりいかなる消費方法が最も効率的かということを実験によって研究するのである。おそらく人間を消費する人間を排除するためのゲームというものが発案されるだろう。人間を消費することを集団的にし、経済に組み込むためである。

どこかで決定的な転換がなされなければならないことは明らかである。集団的で有効な意図を持つ生産様式より、個別的で意図を持たない消費が上位に立たなければならない。その前に最悪のヴィジョン、生成の無垢が集団的衝動によって「誤って」政治化された場合、それはどのようなものを産みだすのか。それは一般的なゲームですでに明瞭にされている。つまりひたすら情動の、消費の欲望の絶滅と、その無際限の効率化による作業である。人生は「作業ゲー」になるのだ。ランダムな生成ダンジョンなど、作業ゲーにしかならなくなるのだ。シミュレーションがだんだんと軍事化し、経済化していくのは必然的だといえるだろう。はたしてゲームは情動の消費を優位にたたせることができるのか?ゲームは人を効率の、有効性の禁欲主義者にするのではないのか?