風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

真の友情を讃えて

勇者と魔王という概念にはどのような基本的前提があるのか。勇者とは勇気あるもの、魔王を何度倒しても屈することのない精神が求められる。ところでこの問い自体は勇者が魔王に反転することがないという欺瞞を前提にしている。つまり同一の価値観が回帰して現れると考えられている。魔王とは、時代遅れになった勇者だと考えれば、なぜ魔王がなんどでも現れるのかが明白に理解される。しかしこの構図が近代的な概念によって利用されると問題はさらに反転する。つまり勇者と魔王が手を組むのである。なぜ手を組むことが可能なのだろうか?それは近代が王を殺したからである。つまり王は共和制に敗北したのであり、その瞬間魔王はブルジョワジーとなって復活するのだ。そこでいまや民衆の化身となった勇者は暴力の絶対的独裁を魔王となることなく行使することができ、巧妙な二重体制をとるようになる。一方で経済学者としての魔王が敵としての役割を持ち、勇者がそれを倒すのだが、もはやこの闘いは狂言にしかなりえないのであり、勇者と魔王が手を組んだ瞬間に逆らえるものはまったく存在しなくなってしまうのだ。なぜ魔王が学者なのかということには厳密な意味がある。というのは問題は科学であり、勇者はその力を使う暴力として支配をおこうなう象徴になるからだ。「自由・平等・そしてベンサム」に従えばこれだけでももう友愛の意味はベンサム的な価値観を持つことが理解される。この両者に戦いを挑むものは、ある意味で君主制主義者であり、残酷で、善悪の彼岸にいるということはやむをえないが、この立ち位置が敗北主義的にならないためにはどうしても暴力が欠けている。というのはあらゆる友情主義者は圧倒的な暴力を持つからだ。逆にあらゆる友情主義者はどうしても友達を護るための圧倒的な暴力が必要にならざるをえないという点を理解する点で聡明すぎるほど聡明である。問題なのはこれが核兵器を超える暴力を最終的には要求するだろうということである。友達を護るためには核抑止を越えて友達を護らなければならない。世界の平和と友達のどちらかをとることなど言うまでもない。両方を選んで圧倒的な力を持つ、である。残る問題は友達を護るためには、一体いかなる種族(これは人間とか、魔族とかいう種族ではなく、卑怯とか、残酷とかおよそ友情に害をなすあらゆるもの)が滅ばされなくてはならないかということである。この点で友情は真の正義であり、必ずやニーチェ的な意味で犠牲をみずからの理念のために要求せざるえないだろう。そしてそれこそがまさに「友情」の勝利であろう。