風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

幼子は迷いけり

眼を使って人を殺したり幻覚を見せたりすることの必然性。照準を合わせることと敵を殺すことは一致している。この種の眼力は写真銃の人間版にすぎない。

天使はインターネット内に生息している貴重な生き物であり、むやみに採集しないように配慮すべきである。「天使は電動である」。

人間と猫が合体することの必然性。「なぜ民主主義者たちは猫を好まないか、察することは容易だ。猫は美しい。奢多、清潔、逸楽、等々……の観念を啓示する。」(ボードレール『火箭』)

水着の問題とは過剰露出の問題でもある。ダリの絵を見て完璧な現代的衣装というものがあるのを発見した。まさにキルラキルの服装と同じである。つまり隠さなければならない部分が露出しているのである。だからこそ裸であるよりも過剰な露出なのだ。

コスプレとはキャラクターが人間を食べた姿である。つまり変身させられ、倒錯的な服装とともに超能力を得る。超能力の本質は原因から眼を背けることにある。だからこそ逆に必要でない部分が露出しているのだ。

女子高生とは学校という兵器工場で作られた戦闘マシンである。つまりもっとも人間を殺すのに適した精神状態なのである。我々は存在論的に女子高生に戦争を教わるべきだと思われる。

テレパシーが一般的に普及したので、電波的でない人々は虐殺される運命にある。ヴィリリオはコミュニケーションとは虐殺の手段だと断言している。「どうしてあなた方は遠くにいる人々の言ってることがわかるのですか?」「魔法の道具によってです」。

お姫様にとって唯一の心配事は、鏡の前で生活できないということではなく、毎日ディスプレイで自分が見られているということに対する誇りが強くなりすぎないかということです。自由に姿は変えれますし、年もとりませんし、性格も大体において変更可能ですから、なおさらお姫様は誇りだけで生きているというわけです。「でも灰だらけ、というわけでもないのよ」。

「「あなたはなぜ、奥さんの前に焼いたあばら肉を載せて描いたのですか?」「あばら肉は焼いてない。生だ」。「どうして生なのですか?」「ガラも生だからだ」。「どうして奥さんとあばら肉を一緒に描いたのですか?」「私があばら肉が好きで、妻も好きだから、一緒に描かない理由が見当たらないからだ」。」(ダリ『ダリ全画集』(ロベール・ディシャルヌ/ジル・ネレ))