風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

戦略的マイナス思考

敗北の方法論。あるいは勝利条件の完全な変更。世界を滅ぼすというのはどういう意味なのか。ウィトゲンシュタインの『確実性の問題』参照。世界を滅ぼすとは事実に関する基本的な言語ゲームの変更である

迷信とは二流の啓蒙思想である、ということでニーチェが言おうとしているのは、迷信が合理性を啓蒙するという事実である。ファイヤーアーベントの方がもっとくわしい。新しい思考方法が現れるためのは、その思想の劣化コピー明白な誤解や抑圧やプロバガンダが必要不可欠だということ。新しい思考方法は決して最初から完全な姿で現れるものではないし、あやまちがないわけでも矛盾していないわけでもなく、むしろ矛盾しており、しかも既存の思考形態から見れば信じがたいほど荒唐無稽であるのだとしても、情熱がそれを支えるのである。

新しく戦争を発明すること。問題は我々がどの程度まで兵士としてすでに動員されているかということである。「権力を掌握して以来、ナチ党政府はドイツ・プロレタリアートにスポーツと輸送機機関を提供する。もはや暴動はなく、さしたる抑圧の必要なく、あらゆる人間に道路を約束して街路を空にすればよかった。それこそが「各家庭にフォルクスワーゲンを」という政策の目的であった。」(ポール・ヴィリリオ『速度と政治』)現在では道路とはコミュニケーションの道路となっている。シミュレーションゲームがもはや軍事的演習に等しく、通信装置による不断のリアルタイム中継が、戦略的行動の訓練にほかならないとすれば、戦争に反対するとは一体何を意味するのだろうか。「抑止力をもつ兵器を生産したり入手したりすることができないから、政治的武装抵抗運動は絶対に戦いを継続しなければならない。かれらのひとりひとりにとって、最初のイデオロギー的動機が何であれ、戦争ゲームを無限に延長すれば、それが勝利であると混同されるようになる。」(ポール・ヴィリリオ『ネガティヴ・ホライズン』)しかしこのことからはグローバル経済による警察的権力の平和戦略が帰結する。だから逆に核抑止以上の戦争概念を新たに発明することが問題なのではないのか。我々はどの戦争の兵士であるべきなのか。というのも我々がいかなる意味でも兵士でないということはもはや信じることができないからである。

公開戦略。わたしはあらゆることを公開すべきだと考えているのではなく、ある基本的布置の転換は公開によってのみ行なわれうると信じているからである。このことは不平等についてもいえる。わたしはあらゆる不平等がなくされるべきだと考えないがある不平等がなくされるべきであるということには賛成する。もちろん重要なのはどの不平等がなくされるべきなのかということである。古い不平等を新しい不平等の形式で粉砕すること。これは古い野蛮を、より洗練された新しい野蛮さで粉砕するということにもつながっていく。ルソーの文章、映画にラジオ、そしてインターネット。さらなる野蛮さには何が必要なのだろうか。

疑問とは次の点、バートルビーによる(非)暴力を表現する手段とは何なのかである。バートルビーが一種のシミュラークルとして現れることは可能なのだろうか?むしろそのことがシミュラークルとして表現される基準とはなんなのか。私はたとえば大刀洗斬子が黒神めだか安心院なじみと対決したらどうなるのだろうかと考えている。あるいはむしろ対決することすら不可能なのだろうか。めだかボックスの小説版では怠惰の強度が問題になっていたが、絶対的な怠惰というのは限りなく公正に等しいということだろうか。しかしそれだけでは、球磨川の戦術を見破ったことが説明しきれない。つまり最初から勝利にも敗北にも眼中にないのだ。それでなおかつ悪平等ではないための怠惰。もし彼女が全能であったら、悪平等になっていたかもしれないが、彼女は有能なのである。ただし絶対的な独立性が存在している。ますますわからない。実際のところ、この強度は何によって測られているのか。思考の独立性である。ただしそれは無気力に比例する。だからこそ久々原滅私はもうひとつの、無能ゆえの独立性だということだろうか。役に立たないことの絶対的な強度。だが絶対的であるが故に、それは強度に反転してしまう