風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

事故の博物館

「すなわち、問題になっているのは、われわれが全体性の真実を偶然の瞬間において把握することを可能にしてくれるような倫理的意志というよりは、むしろわれわれの無責任性の自覚である。実存としてわれわれが自分たちの過去の「事実性」にまったく関与しないことは耐えられない。だからわれわれは意志として自分の実存について責任を取りたがるのだ。純然たる実存としてのわれわれは責任を取ることはできないのに。それゆえに循環的な永続性の概念形成だけが、ニーチェ的な欲することと、ニーチェ的理性によって実現される必然性とを和解させることができるのだ。」(ピエール・クロソウスキー『無頭人(アセファル),ニーチェについての二つの解釈』)
科学(的認識)こそが原罪であるということにおいて、生成の無垢によって示される立場にとって必要なのは、どのようにして科学を、あるいは科学によって引き起こされる事故を強度のシミュラークルに変換することができるのかということにほかならない。このような科学(的認識)によって存在せざるをえなくなった廃残物、キャラクター貨幣がそのシミュラークルになるわけだが、まさにそのことによって、キャラクターの能力、価値は事故の価値となり、事故の強度となる。キャラクターが最終的には一つの事故であり、事故の自己であるのだから、事故を生産するキャラクターと事故を起こすキャラクターが存在することになる。事故を起こさないキャラクターは存在しない―――つまり事故がないならキャラクター足りうる強度を持たないか、それとも存在そのものが事故であるかのどちらかだということになる。カードゲームの記述法は事故の博物館であるとともに事故の記述方法として最高のものであり、事故がディスクールよって起こされるか、ディスクール対して起こされるのかという事故の特徴をうまく説明している。「正しい理論と誤った理論を分かつものは何だろう?それは理論の有効期間の長さだ」というヴィリリオが紹介しているアインシュタインの言葉はカードゲームにおいて完全に証明されている。カードの記述の一つ一つが理論であり、法であるとともに、その有効期間がゲームのルールに従って決められている。そこでこのカードゲーム自体の理論の有効期間はどうなのかという問いも、このカードゲームをプレイする期間という時間規定に従っている。プレイヤーは事故を起こすのであり、相手よりもより強い事故を起こすことが勝利の条件となる。だから、話を元に戻せば、必要なのは責任をとることではなく、大いなる無責任によって、有罪性を引き受けた上での無罪を主張するのではなく、無垢性を導入するような事故を引き起こすことなのだ。