風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

人殺しの酒3

「あのSA隊員の盲目的な野獣性のかげにはしばしば、すべての社会的・知的・もしくは肉体的に恵まれた人々への怨み(ルサンチマン)をこめた憎悪がはっきりと感じられる。実現不可能な夢と信じられていた願望が実現して、そのような恵まれた人々が今彼らの手中にあったのだ。このルサンチマンは後にも強制収容所のなかで幾度か見受けられることになるが、私たちにはこれが人間的に理解し得る態度の最後の遺物のように思えるのは興味あることである。けれども収容所の真に恐るべきところはほかでもなく次のような事実にある。すなわち、ドイツの収容所におけるこのような自然発生的な野獣性は、SSが収容所の運営に当たるようになってからは次第々々に後退し、それに代わって人間の尊厳を破壊するために人間の肉体をきわめて冷徹に、まったく計画的かつシステマティックに破壊する方法がとられたということである。この方法で完全に肉体を制圧すれば、相手を死なないようにさせ、もしくは死をずっと先へ延ばすことができた。こうなれば収容所は人間の姿をした獣の、つまり本来なら精神薄弱者のホームなり癲狂院なり監獄なりに入るべき人間とその運動場や娯楽場ではなかった。反対にそれは、完全に正常な人間が押しも押されぬSS隊員に鍛え上げられる練成の場となったのである。」(ハンナ・アーレント全体主義の起源3』)
「だが問題の枢要は、以前のサダム政権下で捕虜が受けた拷問の「標準的」方法とアメリカ軍との拷問の対照(コントラスト)にある。前体制では直接的かつ残酷な拷問を課すことに焦点が絞られていた。だが、アメリカ軍兵士の焦点は心理的侮辱だったのだ。(…)そしてこの特徴がわれわれを問題の急所に導くことになる。この写真を見れば、アメリカ的な生活様式(ライフスタイル)の現実に通じている誰もが、アメリカ大衆文化の隠された猥雑な側面を想起することだろう。例えば、閉鎖共同体に受け容れられるために経験しなければならない拷問と汚辱の通過儀礼を。(…)アラビア文明とアメリカ文明の衝突は、人間の尊厳に対する野蛮と尊重の衝突などではなく、一方における匿名的で残酷な拷問と他方における犠牲者の身体がヘラヘラ笑う拷問者自身の「無辜のアメリカ人」面にとっての匿名の背景として奉仕する、メディア上の見世物としての拷問との、衝突である。ここで同時にわれわれは、ベンヤミンを敷衍して言えば、あらゆる文明の衝突はその底流にある野蛮同士の衝突であることの証左もまた、手にしているのである。」(スラヴォイ・ジジェクロベスピエール/毛沢東 革命とテロル』)