風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

あらゆる意味ででっちあげられた文章4

だがその勇気も道徳的解釈ではないのか、という批判があるかもしれない。それならカントのほうがはるかに正しいではないか、と。ウィトゲンシュタインの「沈黙」の方が正しいではないかと。だが、なぜそれに反対するのか。それは超越的真理がないと主張することは、あるいはその沈黙ですら超越的真理だからである。ニーチェの戦略とは、カントのこの判断に対する戦いなのだ。もしそこで止まるのなら、それはにどんな価値も状況も変えはしない。クロソウスキーの言うとおりだ。ただの哲学者には表現が欠けているというニーチェの言葉は、哲学者があることを説明したからといって、そこからいかなる効果も生じないということを批判しているのだ。道徳は超越論的に批判するだけでは意味がないのだ。それはそうだねで終わってしまう。しかしこの説明自体がそのようなものなのではないのか。ニーチェが仕掛けた「錯乱」とはまさにこのことを言っている。西尾維新の実験小説的な方法もこのことを実践しているにすぎない。書くことの表現することの不可能性から、いかに理性というメディアを論駁するのか。語らないことも語り続けることもともに失敗する地点。終わるのではなく、終わり続ける地点。たしかに「物語は破綻した時点で終わりですが、最初から破綻している物語には、終わりようがありません。ただただ、失い続けるばかりです」(西尾維新ネコソギラジカル』)なのだ。この立場がアウシュビッツや原爆によって高くつけばつくほど、このニーチェの立場も高いものになるのだ。生成と破壊が同一視され、いかなる救いもないことが救いとなるような生成の無垢。それは肯定と否定が同じことを意味するが故に否定がなくなり、ムーゼルマンの存在すらも世界として認める狂気じみた明るさであり、無を欲するのでなく、無の生成を欲し、「絶対に笑うことのないような何者かがある!」というときに笑うことができる立場である。理性は娯楽としてのみ存在し、世界は昼が考えたよりも深くなる。光がありすぎる世界において夜はどのようにしてやってくるのか。昼と夜が反転し、白夜のような季節になるにはどうすればいいのか。いたるところに昼があり夜がある。だが夜の領域は小さくなっている。夜を生産すること。暗闇の美しさを、ボードレールのいう暗闇の安らぎを創造すること。せめてあらゆる幸福の悲しさが慰められるような暗闇を見出して、蛇の姿で愉しむことはできないものだろうか。