風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

新しい芸術批評のためのプログラム2

「これは戦争であるといっていい。ただし火薬も硝煙もない戦争、戦闘的身振りも、激情も四肢の脱臼もない戦争である。―――がこうした戦いの仕方それ自体が、まだ「理想主義」を抜けきっていない現れであるといえよう。この本の中では一つまた一つと誤謬が氷の上へ置かれて行くのだ。理想は論駁されているわけではない。―――理想は凍え死んで行くだけである。………例えば、この場所では「天才」が凍え死に、片隅を回って少し行くと今度は「聖者」が凍え死んでいる。太い氷柱の下では「英雄」が凍え死んでいる。最後に「信仰」が、いわゆる「信念」が凍え死に、「同情」も著しく冷えかかっている。―――ほとんど至る処で「物自体」が凍え死んでいる。………」(ニーチェ『この人を見よ』)
「(…)もうひとつのことは、「順応」しないということに大衆的な富裕の本質をみる考えは、万人が(ということは一般大衆が)すべて貨幣資本の所有者だという画像では無限大の方に発散してしまう。いくらか滑稽化していえばこの状態での貨幣所有者は、たえず投資を繰り返し、たえず経済の場面を移動させ、たえず「順応」を拒否し、たえず産業の高次化に向かってエコノミーの思考を沸騰させていなくてはならないことになる。この状態は産業の分野を抽象化し、産業そのものを抽象化するにちがいない。それとともにこの状態は、不安定な流動と沸騰の状態がじつは安定性の基盤であるという背理をうみだす。」(吉本隆明『ハイ・イメージ論Ⅲ』)
永劫回帰の観念が、ほかの同じ時期にボードレール、ブランキ、そしてニーチェの世界に入り込んでくるさまを、力を込めて叙述しなければならない。ボードレールにおいては、ヒロイックな努力によって〈繰り返し同じであるもの〉から勝ち取られる〈新しいもの〉に力点があり、ニーチェにおいては、人間がヒロイックな態度で対峙する〈繰り返し同じであるもの〉に力点がある。ブランキはボードレールよりニーチェにはるかに近いが、しかし彼にあっては諦念が優勢である。ニーチェにおいてはこの経験が宇宙論的に、次のテーゼの中に投影されている―――もはや新しいものは現れない。」(ヴァルター・ベンヤミン『セントラルパーク』)
「(…)ニヒリズムの根本的誤謬は、形而上学的に考えれば、それが真実の仮象と誤謬の区別を捉えることができず、そのために誤謬の止揚と同時に、生にとって必要な仮象も破壊されたと考えるところにある。逆に考えれば、仮象は真実の仮象として肯定され、すなわち生の過程は生の維持にとって必然的な仮象の産出として捉えられ、その仮象が芸術として捉えられるのである。これによって、芸術がどこまで、ニヒリズムに対する反運動であるかが明らかになる。それは芸術において、真実の仮象の必然性が理解されるからである。」(ゲオルク・ピヒト「ニーチェ」)
「人類に代わって、次に現れる生物が何であるかということが、私がこの書物で提出する問題ではない(人間は一つの終極である)。そうではなくて、いかなる人間典型が、価値のより高い、生きるにより値し、未来のより確実なものとして、育成されるべきであるか意欲されるべきであるかということである。(ニーチェ『反キリスト者』)