風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

笑いについてのわからないこと

「私の主張が正しかったということに、なんのかかわりがあろう!私はいまでもありあまるほど正しい。―――だが、今日最もよく笑うものは、最後に笑うものである」
ニーチェ『偶像の黄昏 43』)
「聖人となればなるほど、人はよく笑います。これが私の原則であり、ひいては資本主義ディスクールからの脱却なのですが、それが単に一握りの人たちにとってなら、進歩とはならないでしょう。」
ジャック・ラカンテレヴィジョン』
 いったいなぜラカン(とニーチェ)は笑いこそが資本主義のディスクールを脱出することができると考えるのか。ボードレールは笑いのことを悪魔的哄笑だと考え、まさに人は優位に立ったときに笑うのだと書いている。この場合の優位さとは人に決して認められないような優位さであってちょうどチェスタトンがブラウン神父に言わせているのと同じような意味においてである。
「先立って姪に言い聞かせようとしたことなんですが、一人きりで笑える人間には二通りあります。大雑把にいって一人笑いする人間は非常な善人か非常な悪人です。つまり、自分の冗談を内緒で神様に打ち明けているか、でなければ悪魔に打ち明けているのですからな。どちらにしてもその人には内面的な生がある。ところで、世の中には実際悪魔に自分の冗談を打ち明ける人間がいるものです。そういう人間は安心して打ち明ける仲間がいないときには、自分の企んだ冗談が人にわかってもらえなくてもなんとも思わない。冗談の趣旨が十分に陰険悪辣でありさえすれば、それだけでもう本人は満足なんです」(G.K.チェスタトン,『ブラウン神父の秘密(世の中で一番重い罪)』)
しかし神々が笑い死ぬと言うときのニーチェの発言はどちらなのだろうか?それともこのカテゴリーには入らないのか。ではこういうのはどうだろうか。
「へえ!にんまりしないネコなら、いくらでもみたことがあるけれど、ネコなしでにんまりだけなんて!こんなへんてこなもの、いままで見たことありゃしない!」
ルイス・キャロル不思議の国のアリス』)
またはこういうのもどうだろう。
「そういうとオドラデクは笑う。肺のない人のような声で笑う。落ち葉がかさこそ鳴るような笑い声だ。たいていそんな笑いで会話は終わる。」
フランツ・カフカ『父の気がかり』)
こういうものを引用するとデビットリンチの『イレイザーヘッド』にでてくる赤ん坊の笑いはどうだろうか?という気分になる。果たして本当に笑っていたっけ?記憶が曖昧だ。ティム・バートンの『マーズアタック!』に出てくる火星人の笑いなんかはどうだろうか。しかし依然としてわからない。そもそもイエスは笑うのだろうか?明らかに笑わない。ラカンは『精神分析の倫理』で福音書はユーモアに満ちており、「カエサルのものはカエサルに」という言葉を秀逸なジョークとして紹介している。私もたとえば「不正な裁判官」の話はなかなか面白いと思う。イエスが失望しないこと教えるために持ち出すのはやもめがしつこく頼んでうるさいからしかたなく裁いてやると言う裁判官の話なのである。確かにこれは笑える。でも笑いについてはやはり分からない。