風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

人間の絶滅と強制収容所

 「民主的な権利を与えられない人間がいてはならない」という理念が実現するために必要なのは強制収容所である。なぜならそこでのみ人間の権利の全てを断念することで権利の可能性が無限大になるからである。欲望の実現によるいかなる犯罪も起こらないが故に権利はあまねくいきわたる。ラカンの「神が死ねばもはや何も許されない」はこのことを意味しているのであって、そこでは人肉食を含めたあらゆることが許されるけれども可能な享楽は一つもない。「世界が滅ぶとも正義は行われよ」における正義の神はこのように死ぬ。つまりあらゆる人間の絶滅によって正義が究極的に実現されるときにこそ正義の神は完全なる姿を現すだろう。そこで正義を遅らせるための手段としての民主主義が現れなくてはならない。この「来るべき正義のための」民主主義は「世界が滅ぶとも正義は行われよ」の理念を代表するテロリズムに「無限の正義」をもって立ち向かう。無限の正義とは正義の実現を無限に断念するということを意味している。犯罪はもはや行われない。行われるのは民主的な権利の行使だけであって、権利の行使のうちに悪を視る者だけが享楽を手に入れる。だが権利に享楽など存在しないのだ。あるのは権利の不在に対する享楽だけであって、それはまさに権利の不在ゆえに手に入るものなのだ。権利を手に入れたものが目指しているのは享しい収容所生活である。問題となっているのは人類の存続であって、その前にはいかなる政治正統性も意味をなさない。「世界を滅ぶとも正義は行われよ」が核兵器によって実現可能になったとき正義の重さはもはや誰にも背負えないものになってしまった。我々は人類を滅ぼそうとする敵には一致して立ち向かわないだろうか?しかし人類の敵とは正義なのだ。普遍的な教養である暴力が勝利を手に入れことはだれにでもわかっていたことだが、まさにそのときに暴力は意味を失ってしまった。核兵器を世界から抹殺するということは人類の全面的な暴力の普遍化に等しい。核がないならなぜ暴力を行使してはいけないのか誰にも分からないからだ。こうしてダモクレスの剣が人類の上につるされ、われわれはその危険性もわからずのんきに生活し続けるふりをする。では他者への敬意は?この点については次のものが実に希望を語りかけてくれるだろう。「(…)ハンス・フランクの前に引用した小論文は彼が運動をある一点で安定させようとしたことを意味している。そしてポーランド総督としての彼の度々の苦情は、ナツィの政治の意識的に反功利主義的な傾向についての理解を完全に彼が欠いていたことを証明している。征服された民族をなぜ酷使せずに虐殺するのか彼には分からなかった。(ハンナ・アーレント全体主義の起源3 全体主義』)」希望とは人間が労働力として扱われること、つまり他人との絆を結んでいるもの、それが資本主義なのだ。資本主義は定義からして来たるものの信頼を含んでいる。だがこの信頼は貨幣によって頂点に達し貨幣だけが生き残る。残されたものはどうやって人間関係を取り戻すのか。ありとあらゆる抑圧に対する反対によって。こうして問題は最初に戻ることになる。もちろんジジェクの言っていることは正しい。毛沢東の発言「地球が壊れても、宇宙全体から見れば物の数ではない」と言えるような主体がいるのでなければならない。問題はそれを誰が言えるのかということだ。