風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

アニメ『コードギアス』と天皇制1

 まず誤解を避けておくために前置きとして脱原発運動に対する私の立場を簡潔に表明しよう。私は原発に反対しているのではなく原発を必要とするあらゆる政体に反対する。原発は即時ゼロにすべきである。このことに対する理由は私は政府に「原発の対処法を考える間、原発を好きなように使える自由」を許したくないということと、段階的ゼロは現在原発によって被害にあっているすべての人たちの境遇を正当化することを意味するが故である。原発はまず反対し、その後に対処したい。では本題に入ろう。
右翼が自分達の妄想を信じざるを得ないということ、それどころか全ての「日本国民」を使って自分達の妄想を実現させようとしていること。確かにこのことは事実かもしれない。ところでいつから人は自らの既得権益を守るために行動してはいけないことになったのか。まさか彼らに英雄的行動を期待しているのだろうか?結局のところ、この右翼に賛成する人々と反対する人々の利害関係はどうなっているのだろうか。右翼によって脅かされていると感じている人々とは誰のことなのか。「脱原発」とはこのような諸々のグループを「連帯」させるための戦略的言辞なのだが、この「脱原発運動」は誰に向けられているのであろうか。政府と諸々の利害団体だと仮定してみよう。その場合彼らが「脱原発運動」に対してできる唯一のことは、彼ら自身が威張り散らして「俺達が諸悪の根源だぞ」とご丁寧に叫びだすことではないのか。もし彼らが正直に「自分達は無能です。何をしていいかわかりません」などといったら脱原発運動は致命的な打撃を被ることになるだろう。その場合起こることは、誰が脱原発を「主導で」行うかということだからだ。よってこの状況を維持するための唯一の手段は安部政権を批判し続ける立場に身をおき続けることである。我々は当然ながら政府の「愚行」を批判せざるを得ないわけだが、だからといって本質的な問題である日米問題自体がなくなってしまうというわけではない。民主主義が機能していないとか人権侵害がなされているという批判などはまさにこの問題を隠すために大いに役立っている。政府の態度がいかに英雄的態度から程遠いかを指摘することは簡単だが、彼らが自分自身の享楽の構造を社会にさらけだしてしまい、自分自身の享楽を真剣に守ろうとしているというのは事実である。もちろん彼らはそれにしがみついている。だからといってそれを批判する側も同じく政府批判の享楽にしがみついているのでないだろうか。右翼が「誠実」なのはまさにこの点である。では「占領地」である沖縄の態度についてはどうなのか。右翼がアメリカとの妥協によってこの状況を受け入れているのに対して、確かに我々は「平和による占領」を認めたりはしないだろう。この点で脱原発運動はどのような対場に立っているのか。ここではアーレントの議論を持ち出すのが手っ取り早い。「国民国家は征服者として現れれば必ず被征服民族の中に民族意識と自治の要求を生み出すことになる」(全体主義の起源2 帝国主義)そもそも脱原発運動のリピドーは何によって供給されているのか。沖縄の場合敵は明白にアメリカ(軍)に向けられている。しかし脱原発運動の場合、「原発」なる概念では全ての人々を「連帯」させることはできても敵対させることはできない。そのため敵対関係は自分達の安全を脅かすもの移り変わってしまう。国民運動とは定義からして自分達の安全を脅かすものに対する運動なわけだがまさにこのことが脱原発運動の排他性を規定する。この点に関しては公平で「中立的な」商売人たちはおもわずこう叫び出さざるを得ない。「世の中はグローバル化しているのになんて時代遅れな奴等だ!」