風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

象徴的裂け目としての冤罪

 裁判制度にとって冤罪とは成功した行為であり、精神分析的な意味における失策行為だということ。このことが意味するのは、冤罪とは象徴的な裂け目だということである。冤罪が存在するのでなければ有罪と無罪という分け方に意味を与えることができないのであり、冤罪事件とは「犯罪者」を作り出すシステムとしての司法制度という真実を理解するチャンスなのだ。逆に言うと司法制度に誠実な対応を求めるというのは誠実に犯罪者を作り出せということを要求しているのであり、冤罪はその犯罪性を証明しているだけに過ぎない。問題はここからはじまる。この場合冤罪を受けた人はいかなる抗議が可能なのか。果たして公正な裁判などあるのか?しかしもし公正な裁判がないなら冤罪を捏造してもいいことになってしまうので、政治的には「公正な裁判を!」と主張せざるを得ない。しかし冤罪を無くすことは司法制度には不可能なので、その抗議に対しては「抗議の権利を与える」という以上に誠実な振る舞いをすることはできない。そこで抗議者は民主的な権利を使わざるをないわけだが裁判所の意志は一般意志の権利そのものであるということを前提にすれば抗議者自身が間違っていることになりかねない。一般意志の不正は存在しないからである。(私は法律学的に賠償請求が不可能だといっているわけではない。冤罪を受けた人物が、民主的な司法制度から受けた不正に対して和解することは可能なのかということを問題にしているのである。和解が不可能な場合は決まって報復の論理が使われる。つまり「テロリズム」である。)この矛盾を解決するために必要なのがスターリン主義的な見世物裁判である。なぜなら見世物裁判は被告自身に自らに罪があるということを「立証」させるからである。おそらく冤罪をなくすための唯一の手段は逮捕された人間がすべからく自ら「罪を認める」ということであろう。