風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

学校における代表の位置としてのいじめ、あるいは「学校にいじめは存在しない」

 いじめとはいったい何か?定義のようなものはあるのだろうか?あるいは一般的に何をもっていじめと名指すことが可能となるのか。いじめに遭っている人の訴えだろうか?いじめている者の意志だろうか。しかしこの両者はともに「いじめはない」ということこそ言いそうではないだろうか。それに警察が訴えている人に取り合わないこともしばしばではないか。いじめが社会的に発明=捏造されるのはどこからなのか。私が「学校にいじめは存在しない」というテーゼで言いたいのは、学校の内部においていじめに適切な表現を与える場所は存在しないということを意味している。それはつまりいじめに表現が与えられるのは、自殺や社会的な犯罪に関わる場合だけであるということである。故にいじめられている人間が自殺するのは必然的な理由がある。よく怪談などで出てくる「トイレの花子さん」は厳密に学校の犯罪を証明しているのだ。ではいじめはなぜ行われるのか。このことを解明するための出発点は、いじめられている側が「悪い」という前提条件である。いじめられている側が「悪い」ことの理由は単純で、それはいじめを行う側に連帯するのはいともたやすいことなのに、いじめられる側に連帯するためにはある種のヒロイズムが必要となる、つまり原理的にいじめられている側に連帯することの不可能性が存在しているためである。連帯の不可能性が「悪」と見做されることにはルソーにおける一般意志の問題が含まれているが、ここではいじめられている側はつねに―すでに「悪い」という循環構造が明らかにしておけばよい(だからこそいじめは正義にかなった行動なのだ)。ではいじめの存在論的構造とは具体的にどのようなものなのか。あえて突拍子もない仮設を立ててみる。それはいじめられている人こそが学校における生徒の理念を代表しており、いじめなくしては生徒の理念の正当性を維持することができないという仮説である。ここで私は西尾維新の「めだかボックス」の主人公黒神めだかのことを考えている。黒神めだかが選挙における民主主義で敗北することはいじめの構造と類似性があるのではないだろうか。どちらも学校におけるグロテスクな面を象徴している。そしてどちらにも連帯可能性が原理的にない(人吉善吉のヒロイズムはまた別である)。学校の理念に生徒として肉体を与えたことに西尾維新のすばらしさがあるわけだが、まさにいじめられている人間は象徴的な肉体がまったくないことにこそ(あるいは貶められることにこそ)理念が純粋に象徴される場所になるのである。安心院なじみはそのような象徴の一部ではないか?こうしてわれわれはかなり悲観的な結論に達した。いじめられている人間の自殺は日々起きている学校の矛盾の純粋な象徴であり、それは紛れもない個人の尊重の表現であるということである。このことが競争原理に対する厳密な反論であることは明らかである。しかしこのことでわれわれができることはなんだろうか。学校を改革することはできない。そのことの不可能性こそが黒神めだかを生み出したのだから。では球磨川禊のようにクーデターを起こすべきだろうか。だがどんな代案をもって?完璧な人間を作り出すべきか?いったいいかなる理念を伴って?そのことはフラスコ計画における人間の潜在能力の解放による人的資源の確保以外のなりようにないのでは?すると単純に学校自体をなくすべきなのか?たしかにそれで「いじめ」は存在しなくなるだろう。教育も存在しなくなるのだが。もし教育が生徒の潜在能力を高めること以外の一切の義務を放棄するのなら、そのときには教育の近代的使命は完全に終了し、われわれは教育なしに学び始めることをしなくてはならないのかもしれない。